Physicist is Magician 永遠の浪漫、車椅子の宇宙 ――民間月面ツアーと物理学の共通の最大の問題点とは。 上海アリス幻樂団が奏でる、宇宙的で激しい音樂集第五弾 1.月面ツアーへようこそ Welcome to Lunatic City. 「人類の夢の一つ、月面旅行がついに一般人も可能に!」 「来月には日本の旅行会社各社からもツアー開始」  行き交う人の足取りも重い、地上の私鉄の駅前に号外が飛び交った。  スポーツニュース以外では珍しい明るいニュースに、いつもならすぐ捨 てられてしまう号外も、今回ばかりは皆鞄の中に仕舞っている。号外の記 事の内容に興味があってと言う事もあるが、それ以上に記事の写真に惹か れた人も少なくないだろう。  宇宙の写真は人の心を癒す。何故なら、宇宙の写真を見ると否応無しに 人間の小ささに気付かされるからだ。その時直面している苦難が、広大な 宇宙に比べると如何にちっぽけな物だと感じ、癒される。こんなに宇宙が 広いんだから、自分一人の努力なんて大して重要ではない。上司だって政 治家だって今は亡き独裁者だって小さな人間だ。自分は自分の納得のいく まで努力すればいい。宇宙の写真だけで直感的にそう感じるのだ。  宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーン(メリー)の二人は、大学構内のカ フェテラスで興奮した様子で会話をしていた。 2.天空のグリニッジ Royal Greenwich Observatory 「『なお、今回もまた有人火星探査は見送られた』だってさ」 「ふーん。ま、火星探査なんてどうでも良いわ。  メリー、まずは号外の記事の『月旅行』の話よ」 「うん、月と星を見るだけで時間と場所が判る蓮子の目に、  月面がどう映るのか知りたいしね」 「そりゃ『ここは月面です』って判るんじゃないかな」 「時間はどうなのよ?」 「私の目はJST (日本標準時) しか見られないのよ。UTC (協定世界時) は能力外。  そもそも、月面でも地球と同じ時間を使うのって変よね」 「ちょっとちょっと、能力外って……ただの引き算じゃないの?」  宇宙では今のところ協定世界時(UTC)を使っているが、この協定世界時は グリニッジ標準時(GMT)と基本的に同じ物である。  グリニッジ天文台が建てられたのは17世紀である。宇宙を観る為の時間が、 宇宙でも用いられると考えると、些か滑稽である。 3.東の国の眠らない夜 Vampirish Nightlife 「で、いつ行くの? 月面旅行」 「メリーは気が早いわね。  まぁきっと混むだろうし、早い内に予約だけは済ましておきたいわね」 「夏休みとかは滅茶苦茶混みそうだし、暑そうだから少しずらして  秋にしない?」 「月や宇宙が暑いって事は無いと思うけど、同感ね。  秋の方が良いわ。日本的で。  どうせなら今年の中秋の名月に行きましょうよ」 「お団子持ってね。  そうしましょう、そうしましょう」  あらゆる情報が手に入る今でも、宇宙だけは永遠のロマンであった。  そのロマンの一つにして、最も魅力的な月に降り立つ事が出来れば、 誰だって行ってみたいと思うだろう。  だがこの時、二人はまだツアーに掛かる費用を知らなかったのだ。 4.車椅子の未来宇宙 History of Time 「でも、未だに有人火星探査は上手く行かないのよねぇ。  ホーキングの頭の中にあった宇宙が、この目で確かめられる日なんて  本当に来るのかしら?」 「結局、ホーキングを超える物理学者が出てこないのも問題よね」 「あら、蓮子が頑張れば良いんじゃない?  稀有な能力の持ち主なんだから」 「私は専門が違うわよ。ま、プランク並みに頭が良いかも知れないけどね。  それにね、ホーキングの言っていたブラックホールの蒸発とかが実際に  観測される事も無いと思う。  さらに言うと、もう人類が火星に行く事すらないと思うよ」 「あら、悲観的ね。でも蓮子が言うと信憑性があるわ」 「観測する為に必要なエネルギーが膨大に成り過ぎたのよ。  理論上はともかく、事実上、観測物理学は終焉を迎えているわ。  ついでに言うと、月面ツアーは高額過ぎるわね」  物理学は事実上終焉を迎えている。既に物理学は、解釈と哲学の時代に 突入していた。 5.Demystify Feast 神秘性のベールの向こう側 「うん。ここのカフェは構内でも割とオシャレで美味しいわね。  で、蓮子、なんで物理学は終焉を迎えているの?」 「うん。一言で言うと観測するコストが大きすぎるからよ」 「私達が月面ツアーに行けない理由と一緒ね」 「小さい物体を分離させるのに掛かるエネルギーは、小さければ小さい  ほど大きいの。分子より原子、原子より核子、核子よりクオーク……。  こうしてどんどんと小さくしていくと、無尽蔵にエネルギーが必要に  なっていくでしょ? すると究極まで行き着くと、宇宙最大のエネル  ギーを使っても分離できない小さい物体に当たってしまう。この物体  がこの世界の最小構成物質だって言えるじゃない。  もう物理学はとっくに最小の世界まで辿り着いて、次を目指している  の。ここから先は観測できないから、殆ど哲学の世界ね」 「あ、新作のケーキ、美味しそう!  このケーキの最小単位は合成卵と合成苺ね」  エネルギーの限界量は1019GeVと言われている。このエネルギー量を 超えると時空に存在し得なくなるからである。ちなみにこの1019GeVは プランクエネルギーと呼ばれ、原子力の持つエネルギーの約1021倍である。 6.衛星カフェテラス Satellite Cafe 「もう、蓮子に物理の話なんて振るんじゃなかったわよ。  一人で話し続けるんだから」 「ごめんごめん。私の専門だからね。  でもこのケーキ美味しいね」 「月面ツアー行きたかったなぁ……。  流石にこのツアー、値段が高過ぎよ」 「そう言えば、宇宙旅行客用に人工衛星にカフェが出来たらしいわよ?  何でも無重力で淹れた珈琲は格別だとか」 「でもどうせ室内のカフェでしょ?  私はオープンなカフェテラスが好きなのよ」  珈琲を一瞬だけ真空状態に晒すと、気圧の低さにより一瞬沸騰するが、 気化熱を奪われた水は沸騰した瞬間に凍り付く。  この沸騰しながら凍った珈琲を入れた、サテライトアイスコーヒーが 目玉メニューである。 7.G Free Zero Gravity 「そう言えば、珈琲の抽出って重力に頼ってるじゃない。  重力がなかったらドリップ出来ないでしょ?  無重力でどうやって珈琲を入れるの?」 「そこで今はほぼ死滅したサイフォン式が浮上してきたのよ。  サイフォン式は蒸気圧でお湯が行き来するからね」 「サイフォンかー。  そう言えばもうカフェのインテリアでしか見た事がなかったけど、  一応アレも珈琲の抽出道具だったよね。  でも、ドリップより味が落ちるって聞いたけど……」 「無重力用に改良されたサイフォンだと、対流が起こらないから  濃厚な珈琲が作れるんだってさ」 「ふーん。そんなの飲まなくても宇宙は目が覚めそうだけどね。  興奮して」  重力から解き放たれた人間は、新しい文化を築き上げつつある。だが、 それと同時に、様々な道具が重力に頼って動いていたと気付かされる。  早い段階から存在は実証されていて、物理学者の頭を最後まで悩ませ つづけた重力が他の力と完全に統一されたのは、つい最近の事だった。 8.大空魔術 Magical Astronomy 「はぁ、宇宙には魅力があるわねぇ……」 「どうしたの? 溜息なんて吐いちゃって。  地上にはもう魅力が無いとでも言うの?」 「16時31分、宵の明星が見えたわ。  地上にはもう不思議が殆ど無いからね」 「蓮子ぐらいこの世界の仕掛けが全て見えていると、  もう心に虚無主義が顔を出し始めてくるのね」 「だからこそ、メリーの眼が羨ましいのよ。  不思議な世界がいっぱい見えて。  ついでに言うと月面の結界の切れ目も見て貰いたかったわ」 「ツアーが安かったらね」  結界は地上の産物ではなく、ただの境界だから当然月面にも存在する。  月面の結界は、煌びやかな月の都と、荒涼とした無生物の星を分けた結 界である。この結界が存在している限り、月面に行ったとしても月の兎が 搗いている餅も薬も手に入らないだろう。せいぜい、月の石位である。 「月にも忘れられた世界が隠されているはずよ。  高度な文明を持ち、高貴な人が住む月の都。  兎が不老不死の薬を搗き、太陽に棲む三本足の鳥を眺めながら、  月面ツアーで騒ぐ人間を憂えているのよ。  その世界を見られるのはメリー、貴方しか居ないわ」 「確かにね。  人間が集まって開拓進みきる前に行ってみたいわ」 「そうと決まれば、準備しないとね」 「月の都を見たければ、まず月の都についてもっと勉強すれば  いいのかなぁ。  大昔から忘れ去られている太古の月を。  物語の中の煌びやかな月の都を。  狂気の象徴である月を。  そう、知識が境界の切れ目を明確にするからね」 「いやどちらかというと、まずはバイトから始めないと。  ツアー代を稼ぐ為に」 9.ネクロファンタジア Necrophantasia  日も暮れて夕食の時間も近いというのに、新作のケーキを平らげた二人 はようやくカフェテリアを後にした。  この大学では、構内の店なら全て学生カードで清算が出来る。毎月纏め て学費として払うのである。  お金を管理するコストが減り、レジも混雑せず、さらに学生も手軽に買 い物が出来て(親が学費を払うから)売り上げも伸びている。そのお陰で、 予想以上に出費が嵩む事も少なくないが。 「月には不老不死の薬があるらしいのよ」 「不老不死ねぇ。  物理の終焉を迎えて虚無に支配されている蓮子には不要でしょ?」 「誰が虚無主義よ。  私は生きる力でいっぱいよ。  今は宇宙の事で興奮して夜もグッスリなんだから」 「じゃ、不老不死の薬が手に入ったら、蓮子は使うの?」  世界は急速に発展して、何処の国もある程度豊かになったが、人類は次 のステージへと進んでいた。紀元前の頃から右肩上がりで増え続けた人口 が緩やかに減少に転化したのだ。  資本主義は、ノアの方舟の如く経済による格差社会を増進させた。それ により何処の国も軒並み出生率が低下したが、これは全て資本主義の最終 ステップである『人口調整』段階に入っただけである。  いち早く少子化が進み人口が減少に転じた日本は、人口減少によるデメ リットを上手く回避し、選ばれた人間による勤勉で精神的に豊かな国民性 を取り戻す事に成功した。 「不老不死の薬?  勿論、使うわよ。  物語なんかでは不老不死は辛い物だとされているのは何故だか判る?  アレはみんな欲深さへの戒めと権力者への反抗を謳っているだけよ。  でもそれが反対に、不老不死の薬の実存性の裏付けの証拠になってい  るわ。  不老不死は、死が無くなるんじゃなくて、生と死の境界が無くなって  生きても死んでも居ない状態になるだけよ。  まさに顕界でも冥界でもある世界 (ネクロファンタジア) の実現だわ」 10.向こう側の月 Megalopolis of Moon 二人は大学の設備である噴水のある池の辺に腰掛けた。 既に月が顔を出しており、湖にはクレーターの無い平らな月が浮かんでいる。 魔術師メリーには見えていた。 兎が薬を搗き 煌びやかな衣装を身に纏い 優雅に空を舞う天女 水に映った月には結界の向こう側の姿が見えていた。 その月を見てメリーに名案が浮かんだ。 「ねえ蓮子。  月面ツアーが高くて無理ならば、  何か別の方法で月に行けないか考えてみない?」