――七月七日の朝、四つ前に通ってはならぬ。 忘れられたタブーをめぐる三様のもつれた異界奇譚。 上海アリス幻樂団が奏でる、不穏さが美しい音楽集第十弾 1.七夕坂に朝が来る Tanabatazaka at 10:00 AM  「まだ10時まで4時間はあるか……」  マエリベリー・ハーン(メリー)は心を落ち着かせようとしていた。  慣れない一人旅、そして一人で野宿までしたのだ。  いつもなら、旅の凖備は親友に任せっきりで、全て自分で計画を立てたのは初めてのことだった。だから、完全に装備不足だった。野宿にはテントのような物が必要だという事すら忘れていた位である。  夜は満足に眠れなかったが、昼夜逆転することが当たり前のメリーにとってそんなことは些細な事だった。  人気無い常陸路の夜は、星を見ながらの夜更かしには最適だった。  疲れが取れないことを除けば、だが。  今日、7月7日は七夕というだけで無く、メリーが調べたところ、この場所――恐らく七夕坂と思われる坂では特别な日の筈だった。  しかし、朝になっても辺りには何の気配も感じず、  不安と諦めの入り交じった感情が脳を支配していた。 2.不等式のティンカーベル Tinker-bell's inequality  ――一人旅の一月前。  メリーは旅の計画を立てていた。  宇佐見蓮子は自分の学説に自信がついたらしく、学会で発表する為に一人篭もって論文を書いているという。  一番の親友であるメリーも暫く会っていなかった。  「ふーん。これが蓮子の論文最新版、か」  蓮子から送られてきた茶封筒には分厚い紙だけが入っていた。  今どき手書きの論文なんて時代錯誤にも程があるけど、これにも彼女流の仕掛けがあるらしい。  「……確率論の崩壊と異界?    コペンハーゲン解釈の復活と夢の世界?    さすが古典量子論復古主義のあいつらしい論文ね」  メリーは退屈していた。  最近、秘封倶楽部の活動が途絶えていたからだ。 3.禁断の扉の向こうは、この世かあの世か Beyond the forbidden door, nobody knows.  論文を読んで目が覚めた。  私には判るのだ。  宇佐見蓮子が試みている解釈は、古典的な量子論である事を。  突拍子もなくみえるだけで、人間の想像を超えていない事を。  私には視えるのだ。  今の世界と別の世界を分ける扉が。  見えない蓮子がこの現象をいくら量子論的に解釈しようと、  そんなのは陰謀論以下のトンデモにしかならないだろう。  あの禁断の扉の向こうにある世界は、  想像を超えてなければいけないという事を。  そしてそれは、実際に存在しているのだという事を。  私なら実在を証明できるという事を。 4.スモーキングドラゴン Smoking Dragon  ――七夕坂に小雨が降り始めた。  まだ梅雨は明けていないようだ。メリーの身体は小刻みに震えていた。  「あと30分······!   午前10時になれば、必ずここに異界の扉が開く。   私が異界の実在を証明してみせる!」  一から一人で異界の調査したのは初めてだった。  いつもは蓮子が新しい資料を見つけてきてくれていたからだ。  七夕坂は、7月とは思えない低い気温で、メリーの心は少しくじけていた。  そんな筈が無いのに息が白くなっているように感じた。  「あと5分……!」  辺りが濃い靄に包まれていく。霧と言うより煙のような濃度だ。  これは……望んでいた怪奇現象だ。扉が視える!  そう思った瞬間に、メリーは視界を失った。 5.夢幻能 Taboo Marionette 『その坂は、七月七日の朝四つ前に通ってはならぬ。 通ると必ず不思議がある。』 七夕坂の禁忌は、とうの昔に忘れられた。 じゃあ、仕方が無いね。 人間は異界との付き合い方を忘れてしまった。 じゃる、仕方が無いね。 禁忌を忘れた幻想は矮小化し、死は幻想入りする。 この娘も、自分の世界が現実側だと思い込んでいたのかなー。 不死の人間だと思い込んでいたのかなー。 そんな訳ないのにね。 ねー。 6.クレイジーバックダンサーズ Crazy Backdancers  「メリー!?   何処かに隠れているんでしょ?」  宇佐見蓮子は大声を上げた。  メリーが音信不通になってから二週間は経とうとしていた。  メリーの家は、蓮子の論文で散らかっていた。  電気も水道も使った形跡は無く、暫く留守になっているようだった。  「論文にかまけて、ほったらかしにして悪かったわ。   謝るから出てきてよー」  返事が期待出来る状況では無いと判断した蓮子は、  メリーの家を漁ることにした。  失踪したとしたら、何らかの手掛かりがあるかもしれない、と遠慮無く散らかした。  元々散らかっていたんだから罪悪感は無かった。  すぐに蓮子は一冊の古びた本を見つけた。 7.憑坐は夢と現の間に Necro-Fantasia  「……これをメリーが?」  余り勤勉では無いメリーが読むとは思えない様な難しい本だ。  難しい仮名遣いが読み辛い、とても古い本のようだ。  注意深く痕跡を探した。  他にもこの場に不釣り合いな写しも見つかった。  どうやらどこぞの国の風土記の様である。  普段から秘密を曝くサークル活動を行っていたから、  違和感を見つけるのは得意だった。  秘封倶楽部のネタ探しは私がすることが多く、メリーは現場担当だ。  だから私の知らない秘密に関係する資料が、この家にある事自体が不自然だった。  違和感は真実である。  物理学者が違和感に敏感なのはそれが真実だからである。  「……常陸国風土記 (ひたちのくにふどき) ? これは、真実、か?」 8.ひとりぼっちの常陸行路 The Lonely Road of Hitachi  何処までも、のどかな風景が続いていた。  自然文化保護区に指定された常陸国は、縮約国家政策の象徴のような場所だ。  昔の日本はこんな感じだったのだろう、という田園風景が広がっている。  だが、保護された文化というものは既に死んでいるのだ。  死んだことに気が付いていない幽霊のような存在だ。  うわべだけそれっぽくても、本当の日本はこうでは無かったはずだ。  文化の墓場の上で生活している今の人類は、ゾンビのようなものかも知れない。  文化列車遺産である『特急ひたち』に乗って、蓮子は一人目的地を目指した。  しかし、蓮子は外を見る余裕なんてなかった。  手にはメリーの字で追記された自分の論文がある。  ほぼ全てが、否定形か疑問形の追記だ。  「メリーが私の論文に書き込んでいる……。    こんな事今までなかったのに」  蓮子は戸惑いな感じながら、ほんの少しだけ嬉しく思っていた。 9.地蔵だけが知る哀嘆 Reticent Stone Statuette  「七夕坂……、どうやら疾うの昔に失われた地名のようね」  メリーの集めた資料によると、蓮子が今居るこの辺が常陸国の七夕坂らしい。  蓮子は再考証したい気分に襲われたが、それをしなかった。  何故なら、本当の七夕坂がどこであろうとも、  例えメリーの考察が間違っていたのだとしても、  メリーの失踪先を探すなら、メリーの資料を信じる事が正しいからだ。 『七月七日の朝四つ前に通ってはならぬ。 通ると必ず不思議がある。』  メリーが行方不明になった時期と一致する。  蓮子は想像した。  メリーは、能力を持たない私の学説に不満を持っていた。  メリーは異界への扉を見つけるためにこの地にやってきた。  そして予想出来た事故、『神隠し』が起きたのだ。  登山道の脇の地蔵がこちらを向いている。  蓮子は頭をフル回転させた。  彼女は、自分の無力さに嘆く様な、遠慮がちな人間では無かった。 10.秘匿されたフォーシーズンズ Hidden Star in Four Seasons  「マエリベリー・ハーン!   いつまで異界発見を自分だけの特権だと思い込んでいるのよ!」  蓮子は乱暴に地蔵をひっくり返した。  文化財であるこの辺一帯の人工物を動かす事は、禁じられているとは知っていた。  しかし、本当の禁忌を破る方法はこれしか思いつかなかったのである。  地蔵なんて、後で元通りにしていけば判りゃしない。  自分にそう言い聞かせたが、心情は穏やかでは無かった。  蓮子の予想通り地蔵の背中には、光が漏れる一筋の切れ目が見えた。  「確かに、メリーの能力は不思議だよ。   だけど、それも物理的な現象で無ければならない。   何故なら、人類には観察しか許されていないからだ!   不思議さで言ったら、量子の世界の方が遥かに上ね!」  地蔵の背中にある切れ目は、その先が異界である事を物語っていた。  ここまで、蓮子の異端な学説と相違はない。  その背中の切れ目の向こうの世界を予想するだけの材料は無い。  だが、蓮子は躊躇せずに腕を突っ込んだ――! 確か、さっきまでは騒々しく聞こえていた 鳥の歌も、風の声も、木々のさざ波も止んだ 目を閉じると黄金に輝く大地が視える 空一面には沢山の不思議への扉が視える マエリベリー・ハーンの姿も手の届きそうな所に視える そうか、今日は夏では無かったんだ 隠されていた五つ目の季節が現れる 完全に失われていたこの世の姿が蘇る この国のタブーが、いま破られたのだ! 11.夜じゃなくてもお化けはいるから Ghosts exist even when it's not night  「その論文は間違っているわよ。   異界にも実在性はあるんだから。   蓮子だって判っているはずじゃない。一緒に見たでしょ?」  「メリーは勘違いしている。   私の学説は異界の実在性を否定しているのではないわ」  「え? でもここにそう書いてあるしー」  「異界だけではなく、粒子の非実在性を肯定しているの」  「うーん?」  「この世界に古典的な意味での物質は無い、と言っているのよ。   この世の全ては場の干渉だったんだ。   異界だけじゃなくてね」  「えー。   物質が無いって、そんな極端な……。   それじゃあ、私達皆、幽霊みたいじゃない」  「じゃあ、幽霊と私達、何が違うって言うの?   七夕坂で異界に触れたメリーなら、簡単には答えられないはずよ」  七夕坂から生還したメリーは、それでも蓮子の学説に納得はしてなかった。  でも、良い答えが見つからず、頷くしか無かった。  「……しかし、二週間も過ぎてたなんてね。   私には午前十時になった途端、霧の向こうから蓮子が現れたように見えたのに」  「時間そのものも場の干渉の一つなのね。   もし、私が助けに行かなかったらメリーはどうなってたと思う?」  「普通に午前十時になって、何も起きなくてそのまま旅から帰ってたと思う。   とぼとぼと、ね」  「ふふ、そこは私と同じ考えで良かったわ」 この世は夢か現か これだけは忘れてはならない タブーを忘れるな お化けのいない場所は、この世の何処にも無いのだから